日本語をこねくり回す。映画や音楽にケチをつける。変なものを変だと言う。変じゃないものにも変なこと言う。カテゴライズするのは結構だが、複数のかけ離れたジャンルを少しずつかじるような人の立場は。

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<!>ここでは過去の日付に新しい記事が追加されることが少なからず、というかかなり頻繁にあるので、暇な人は「新着」に騙されないように掘り返してみてね。
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猫の恩返し(2002、日)

英語タイトルは『The Cat Returns』っていうのか。じゃあ、『スーパーマン リターンズ』の邦題は『スーパーマンの恩返し』か(違)。

これ書く前にケータイでネット検索してて発見した、この映画に対するツッコミが非常に稚拙でびっくりした。そりゃ確かにツッコミどころは探せばそれこそ本が1冊書けるほどあるだろうけど。私が唯一気になったのは、人物や背景の大きさの比率。

軽度のネタバレ?
詳しく検証したりしていないので、「そう感じた」というだけで、実際はものすごく綿密に計算されているのかもしれないが。最初は、当然フツーの世界。猫の事務所のある一角は、恐らくフツーの猫が人間だったら(というか人間が猫サイズだったら)このくらいの大きさの家に住むだろう、という大きさっぽい。ところが、カットによって人物と背景の大きさのバランスが違って見えるので(遠近法が極端なのか?)、なんかおかしい。その空間にいる間に主人公が徐々に徐々に小さくなったりでもしているのだろうか。猫の世界では主人公が小さくなって猫サイズになった、という設定だし。置き物のときのバロンは、猫の事務所の窓に飾られているので、ものすごく小さい。動き出すと同時に巨大化するのだろうか。そのへんの設定は知りませんが、私には、置き物のバロンと猫の事務所の窓の大きさの関係が、フツーの世界の窓の大きさに影響されているように見えてならない。

まあそんな感じでそもそもの設定上、人物の大きさが変化するので、難しいのは分かるのだけど。が、人物(猫含む)同士の大きさのバランスまで、カットによってなんか違って見えるのはいかがなものか。アニメーションって、キャラクター決めたときに、各人の大きさの関係が分かるように、登場人物が全員並んだイラストを作るよね。それを見てみたい。見たらなるほどって思うかな。けど、アニメーション(に限らず映像作品)って、「正しく」描くことより、観る人に自然に見えるように描くことの方が重要だよね。

この作品と関連の強い『耳をすませば』の中に、「遠くのものは大きく、近くのものは小さく」見える世界が出てきますが、その中でも、雲(のようなもの)は遠くのものの方が小さかったり、飛び去る人物はフツーに小さくなっていったりしているわけで。これは設定上「間違っている」と言えるけど、仮に飛び去っていく人物を、その世界の法則に従って徐々に大きく描いたとしたら、それが遠ざかっていっているということを観る人が認識できないので、作品として成り立ちません。

全然関係ないけど、DVDの日本語字幕に誤植発見。「猫の命にはえられないか」だって。「代えられない」じゃないの?

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▼この記事|| 2009/12/24(木)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

部屋の蛍光灯がなんか暗い、と指摘されて、掃除するためにカバーを外したら蛍光管が黒くなっていた。で、よくよく考えたらもう下手すると9年くらい替えてないかも?ということに気付き、買いに行った。

当時、次世代蛍光管としてデビューしたばかりの「スリム」タイプの環形蛍光管(FHCという規格らしい)にこだわって購入した照明器具だが、一般的になりすぎた従来型の規格がそう簡単に淘汰されるはずもなく、今でもどちらかと言わずともマイナーな方な気がする。今は(どちらが先とか知らないけど)他のタイプもあるみたいだし、もしかしてこのままMDもしくはLDみたいな立場で消えていくのだろうか。まあ、LEDが現在の照明の風合いを完全に再現した上で一般化して価格が下がったら蛍光灯なんて一瞬で消滅するだろうけどね。

んで、カバーを掃除した上で蛍光管を交換してみたら、3.5割くらい明るくなりました。今度は東芝の「PRIDE」とかいうやつにした。明るさ5%アップ、寿命1.3というふれ込みの。東芝の普通のが1セット2,380円、PRIDEが特価で2,480円。そりゃあ良いほうを買うしかないだろうということで。今までは昼白色だったけど、PRIDEは昼光色しか置いてなかったので、それで。まあ事務所とか書斎的に使ってる部屋なのでこれで正解だろう。ついでに常夜灯もLEDに交換した。ほとんど使わないのに。なんか新しいもの好きみたいになっちゃった。

しかし、ただでさえ「従来品と比べ2倍」と言われるスリム蛍光管の、さらに通常より1.3倍という15,000時間の寿命。一日の平均点灯時間を考えるとまた9年くらい平気で持ちそうだ。

一人より二人で帰る夜の道

そうね、クリスマスだものね。2年前に撮ってアップするのが面倒で放置されてた写真。

▼この記事|| 2009/12/18(金)| 変なもの| トラ(0) | コメ(0)

茄子 スーツケースの渡り鳥(2007、日)

これってOVAだったのか。それすらも知らずに観た人です。前作の「アンダルシア~」は、原作を読まずに観て、わりと好きだった。その後、原作を読んで、わりと好きだった。今回、原作を読んで、しばらくしてから観た。

ペペがルパンに見えてしょうがなかったのだけど、これって、本当に黒田硫黄の同名の作品を原作とした映画なのだろうか?細かな設定とか画風とかは全然重要だけどひとまず置いといて、空気感が全然違う。どのくらい違うって、「ランボー」と「ランボー2」くらい違う。もしくは、「ランボー3」と「ホットショット2」くらい違う(あくまで例えです)。これには正直、心の準備ができていなかったというか、一人の観る人としての対応力が追いつかなくて、迫り来る作品から反射的に身をかわし続けていたら、状況を把握する前に終わっていた。

今回、先に原作を読んで、わりと好きだった。その後、原作の内容を忘れかけた頃に観て、違和感を感じた。その原因を探るべく後から原作を読み返して、確信した。私は、黒田硫黄の絵は好きではないけれど、黒田硫黄の空気感が好きだった。よしもとよしとも原作で黒田硫黄作画の作品が微妙に好きだったのは、よしもとよしともの原作の空気感が好きで、黒田硫黄の絵が好きではないからだと思っていたけれど、あの空気感は実は紛れもなく黒田硫黄の絵であって、私が好きな黒田硫黄の空気感は、私が好きではない黒田硫黄の絵だった。つまり私は黒田硫黄の絵が微妙に好きだった…あれ?

なので、言ってみれば原作崇拝者の一人になってしまった私にとってこの作品は一種の失望であり、所々に原作のモチーフを発見して「お!」とちょっと喜んだくらい、まるっきり違うものに見えた。が、それはつまり前作を加味した上で考えると、この高坂さんという監督が、原作との距離感を自分の手指のように自在に操ってどんな風にでも消化(昇華?)できるんだぞという手腕を目の当たりにして、この全く新しい創作物に腰を抜かしてしまったというか。だから命からがら身をかわすのが精一杯だったのか。

以上から分かる通り、非常に素晴らしい作品です。が、今思うと、アニメーションのデジタル化がどんどん進んで、なおかつデジタル化に起因する違和感がどんどん薄くなってきてるなぁ、という点にばかり目が行ってしまう54分間だった。デジタルの自然さに感心する一方で、手描きのアニメーション部分のうねうね感が気になってしょうがなかった。アクロバチックなアングル連発だったからなおさら。AKIRAみたいな「味」のあるうねうね感ではなく、もちろんジブリ的なスマートさからは程遠い。動画描いたの誰だよ。予算の都合?

▼この記事|| 2009/12/14(月)| 映画| トラ(0) | コメ(2)

「魔法にかけられて」という邦題の映画がありますが、観てません。ただ、このタイトルを聞いて、「ん?」と思った人は多々いるようで。私もそのクチです。日本語の文法にはちょっとうるさいですよ的な見地でそう思い至ったのではなく、日本語を母語とする一人間として何となく違和感を感じた。

けど面倒なので以前のように詳しく検証する作業は他の人に任せます。以下想像だけ。

「かけられる」と聞くと、当然「ABかけられる」というふうに目的語を必要とするように感じる。まるで詩人が痛みを必要とするように(←これ何の引用か分かった人エライ)。この場合、一般的にAは人、Bはモノです。「魔法にかけられる」と聞くと、「魔法Bかけられる」の目的語Bを省略した文のように聞こえる。となると、魔法さんという人がいるの?魔法ってモノじゃないの?となり、それが違和感となるわけだ。
…ってそんなバカな。確かに、パッと目耳にした瞬間の違和感はそれが原因の場合もあるかもしれないけど、魔法さんが犯人なわけじゃないだろうと誰でもすぐに考えるわけで、魔法はBであると気付く。で、このフレーズを反芻してみる。「魔法にかけられて」。「魔法にかけられて」?…ん?「魔法をかけられて」じゃね?

例えば、「催眠」だったら?「催眠をかける」「催眠にかける」どっちだ。「催眠術」だったら?「催眠術をかける」。「催眠状態」だと?「催眠状態にかける」。この場合「催眠術」は手段(原因)であり、対象に向かって飛んでくるもの。「催眠状態」は目的(結果)であり、対象が飛び込んで(放り込まれて)いくもの。催眠術をかけられた結果、催眠状態にかけられたことになる。だから「催眠術」を目的と解釈すると、「催眠術(の術中)にかけられる」もありうる。じゃあ、「魔術」だったら?「罠」は?「暗示」は?「拷問」?「謀(はかりごと)」?「鑑定」?「篩(ふるい)」?「競売」?「入札」?「火あぶりの刑」?「縄」?「網」?色々例を出してみると、……よくわからんので以下略。で、「魔法」は?「魔法にかける」も「魔法をかける」も間違いではない。「魔法」は手段(原因)にも目的(結果)にもなりうるからだ。よって、「魔法にかけられて」は文法的には間違いではない。…本当かなぁ。

書き始めたら意外と長くなってしまった。

まあ、意図してかどうかは知らないが、「魔法をかけられて」よりもインパクトがあり、印象に残る。こういうかたちで話題にもされる。商業的には「間違いではない」どころか「大正解」ではないだろうか。

関係ないけど、「商店街に行く」「商店街を訪れる」の例みたいに、助詞が決まってる場合もありますね。商店街は目的地ではなく通り道かもしれないので、「商店街を行く」はありうるけど、いかなる場合にも「商店街に訪れる」はありません。

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魔法(に)かけられて……?

▼この記事|| 2009/12/08(火)| 日本語| トラ(0) | コメ(0)
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