日本語をこねくり回す。映画や音楽にケチをつける。変なものを変だと言う。変じゃないものにも変なこと言う。カテゴライズするのは結構だが、複数のかけ離れたジャンルを少しずつかじるような人の立場は。

since apr.01,2005

 
<!>ここでは過去の日付に新しい記事が追加されることが少なからず、というかかなり頻繁にあるので、暇な人は「新着」に騙されないように掘り返してみてね。
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すべてのバカモノへ/東京60WATTS
(ピーエスシー、2003/08/06)★音楽(アルバム)

思い思いの音楽を携えて、彼らは街にやってきた。夜の池袋は怖い。渋谷に恐怖が渦巻いているとしたら、恐怖が身を潜めて、でも吐息ははっきりと聞こえる。そこへ何食わぬ顔で流れ出すピアノ。無表情のつもりで証明写真を撮ると、かすかに笑っているような顔になってしまう男がいたが、こいつにとっては、これが無表情なのだろうか。ドラム、ベース、ギター。みんないつもと同じ服装、いつもと同じ顔、でもなんか違う。みんな揃うとどこか他人行儀に、いい人ぶろうとしてる。そんなことしたって無駄だ。ここは池袋。リーダーの変幻自在な、別の言葉で言うと、意識は鮮明なのに酔っ払いみたいにふらふらしてる、その声が、洗いざらい本音をぶちまける。ああ騙された。ここは東京じゃない。ニューオーリンズ!

その辺をほっつき歩いてる自由人も、ここでは冒険者だ。海を越えて世界を股にかけ大陸のビートを刻む、でも所詮は吹き溜まりだろう。思い出すのはどこの風景かなんて、言わずともわかっているに違いない。京都のコンビニは、通常より渋い色調の光を放っていたりする。西武線は黄色い。でもそんな小手先の方法論で何を実践したって、それが見慣れた風景を形成するのだから、もしかしたらそれって成功しているのだろうか。そうだとしたら、現実とは何だ。

現実とは、痛みだ、と言う人もいる。現実とは目に映るすべてだ、とも言える。じゃあ現実は、目をそらしたくなるような空想の世界だ。頭で想像できる程度の現実なんてのは頭で創り上げだ非現実に過ぎないのだ。昇天するのが現実だとしたら、それはつまり非現実なのだ。ひときわ目を引くピアノの音も、目を凝らしてみれば高速度で弦をたたくハンマーの非現実世界だ。でも安心してもらいたい。ちょっとしたことで泥沼からは抜けられる。珠玉のバラード。噛まずに言えただろうか。しゅごょく。これが現実だ。つむじなんて見えないんだ。だって、ラーメン屋台の煙の向こうの顔が見えるだろうか。そう、煙は湯気だ。水蒸気が冷えて湯気になる。これが現実だ。ちょっと話をそらすと、リモコンが電波を飛ばす。それも現実。

でももう少しスピーカーから離れて聴きなさい。あまり近付きすぎると目が悪くなる。あいつだって、気安くしてくれるなと虚勢を張っているだろう。少し離れていたほうが、全体像が見えるというものだ。それは等身大の人間に過ぎない。まるで原子ひとつひとつの中に宇宙が広がっているような錯覚にとらわれるはずだ。発生する熱量は、60ワット電球たった1個分。だからって60ワットさんなんて呼んではいけない。それがスターというものだからだ。今のうちに、短くて長い時間を振り返ってみなさい。これがバカモノの構成要素だ。あれ、はじめ自分はどこにいたんだっけ。目白通り?じゃあここはどこだろう。おい、CDを止めたら止まってくれ。困ったな。でも悪くない。

初期の東京60WATTS/東京60WATTS(東芝EMI、2004/06/09)でもいいです。

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▼この記事|| 2003/10/25(土)| 音楽| トラ(0) | コメ(0)

High & Low/サンタラ
(フレイヴァー・オブ・サウンド、2003/05/28)★音楽(アルバム)

気を許してはいけない。気を許したら、何が起こるかわからないぞ。

そもそも、初めて見たとき、のぞき穴を作ってしまったのが間違いだった。僕は、心を閉ざして生きている。ロブも言っているように、音楽は有害だ。青少年だけでなく、誰しもにとって。身を滅ぼしたくなければ、音楽に入れ込まないことだ。でも別に僕だってまじまじと見入ったわけではないのだ。ただ、耳を貸した。覗き見した。そしたら、するすると入ってくるやつがいた。言葉だった。

未知との遭遇、なんてしょっちゅうあることじゃないし、どんな感触なのかもうこの手は憶えていないけれど、きっとこんな感触だったのだろう。なんというか、既知のものにすがって生きている者を、根底からぐらぐらと揺さぶる、強大な力を持つ、小さな小さな物体。今まで知らなかった言葉じゃあない。それが違う意味を持って…いや、そうではない。そもそも僕にとって、言葉とは意味ではない。言葉とは音だ。しかしこの遭遇は、音ですらない。理解なんて言葉、片手でつかんで、不適に笑って投げ捨ててしまうような奴らだ。

侵入者は言葉だ。でも、それを運んできたのは、メロディーであり、声である。これらに関しては、明白だ。隠し立てするようなところは、何もない。鼻に掛かってて、心のフィルターに掛からない、身のこなしの軽い声。しかしものすごい質量とエネルギーを持っている。科学系の単語が出てくるのは、『空想科学読本』シリーズ(柳田理科雄著、宝島社 他)の影響だ。何だかわからないけど声の存在はよくわかっている。あとメロディー。明らかに体に悪そうなギターの音色の上で、ものすごく体に悪いブルージーなフォーキーなのと、かすかにキッチュを匂わせるポップなのが混ざってる。混ざりきらずに2層に分離しているところすらある。ちゃんぽんしたら悪酔いするのは必至だ。空いている落とし穴に落ちるようなものではないか。こんなわかりきってる声とメロディーなのに、防ぐことはできなかった。なぜなら先に書いたとおり、言葉だったからだ。

この有害な言葉は、頭の中で何度でも再燃するだけでなく、メロディーと手を組むことによって、物理的に音として口から出るという困った症状まで持っている。もはや病気と言っていいだろう。「メロディーと言葉の融合」は僕にとってテーマに違いないが、それが完璧にくっつく必要がないことを、彼らが証明している。それどころか、「キャッチー」という、さらに根本的なテーマまで、子供のおもちゃにされてしまった気分である。考えてみたら、考えてわかる程度のものなんて、考えたって無駄だな、とも思う。

誰もが同じ考えを持つとは限らない。特に、こう見えてもアクの強いこんな作品に関しては。そうなると、どれくらいの人が同じ症状を持つのか知りたいし、他にどんな壊滅のしかたがあるのか興味を引かれる。ぜひとも多くの被害者を見てみたいものである。

▼この記事|| 2003/10/25(土)| 音楽| トラ(0) | コメ(0)
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