日本語をこねくり回す。映画や音楽にケチをつける。変なものを変だと言う。変じゃないものにも変なこと言う。カテゴライズするのは結構だが、複数のかけ離れたジャンルを少しずつかじるような人の立場は。

since apr.01,2005

 
<!>ここでは過去の日付に新しい記事が追加されることが少なからず、というかかなり頻繁にあるので、暇な人は「新着」に騙されないように掘り返してみてね。
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2012(2009、米)

NASAが『一番「ねぇわ」と思う映画』に選んだ記念に観てみた。そういうミーハー(古語)な人って多いと思うので、これで名前が挙がった映画はセル/レンタルの売上げが上がるんじゃないだろうか。

観たんだけど、感想というような感想は…。主人公ジャクソンのドライビングテクニックと強運スゲー、と思ったくらい。なんで物書きがショーファーやっててこげん超絶運転技術を持っとう?そこんところの説明ってあったっけ。『ハイ・フィデリティ』(HIGH FIDELITY、2000、米)を観て以来「ダメ男」役のハマりっぷりに全俺が熱狂したジョン・キューザックだが、この映画の中ではどうも不完全燃焼だった感が否めない。こんなダメ男だったら自分もなりたい!とは到底思えないというか。ダメさが不足しているからだろうか。

なんでもいいんだけど、この、言ってしまえば何も解決していないし何も成し遂げていないのに映画として何となくグッドエンド(少なくともバッドエンドじゃない)風にまとめちゃってるところがものすごーくイラっとくる。『アイランド』(THE ISLAND、2005、米)で感じたのと同じ(「アイランド」はチラ観しただけでちゃんと観てないけど)。『風の谷のナウシカ』(1984、日)を見習いなさい。…どうも他の作品の名前を挙げるとケイオスになってしまうようである。

NASAがこの映画を「最もありえん」としたのは、この話が妙に「ありそう」だったために、本当に信じちゃった人がいて声明まで発表する羽目になったりしてうんざりしたから、だろう。科学的にもっとありえないSci-Fi映画なんて他にいくらでもあるだろうし。そういう意味では、この受賞(?)は誇っていいと思う。が、個人的には、この映画が特別な何かとは思わない。何のランキングにも、ベストでもワーストでも、ランクインしない。

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▼この記事|| 2011/01/15(土)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

SS―エスエス―(2007、日)

何この学芸会。

用事ができたとか時間がないとか以外の理由で、途中で観るのやめたくなった数少ない(いや、実はたくさんあるのかもしれないが)作品。あまりの演技になっていなさに、妻役の酒井某氏とか子役の演技がとても上手いように感じてしまった(注:日本の子役の演技力は基本的に絶望的と思っているので、期待値が低かったせいもある)。客観的に上手いかどうかは知らん。

東本昌平氏の原作を読んで、トトロのしっぽをつついたメイのようにどうしようもなく嬉しくなっちゃって、映画化されているのを知って慌てて観たのだけど。なので原作贔屓なのは否めない。が。原作に必ずしも沿わないキャラクター設定とかは全くマイナス評価と思いません。『頭文字D THE MOVIE』のキャラクター設定なんか大好きだし。でもね。でもね。変えちゃいけないところがあるでしょう。原作のキモというか存在意義というか(と、私が感じた)の部分とか。それを横に置いて、全く別の存在意義を作るならそれは良い。素晴らしい。けど、この映画の言いたいことって何?この映画って何のために存在するの?…まあ、原作に対する私の最初の感想が、「すげー好き。けど売れないだろうなぁ(実際売れてるかどうかは知らないけど、万人に理解されるとは思い難い)」というものだったので、それをそのまま、私にとって心地が良い作品になるように映画化してしまったら、興行的に失敗するだろうけど。

でもね。そんなこともわからないのか。」と「ゴメン!落ちるワ。」のセリフ。一体どう解釈して音声化すればああなるんだよ!ほんと、“そんなこともわからないのか”。これは『青い車』を観てガッカリした時と同じ気分。このガッカリ感は原作崇拝者のたわ言と思っていただいても結構だが。あまりのガッカリ加減に、「そんなこともわからいのか。」の理想的な発音を求めて、独りで何度も口にしてみたけど、無理でした。全然関係ないけど原作に3回くらい登場する「ゴメン!落ちるワ」のシーン、毎回描き起こしてる(コピーじゃない)点に感服しました。

映像にしても然り。「CGを使わず実写のみで描き切った迫力の超絶バトル!」って。何この迫力なさ過ぎな走行シーン。だからクルマの走行シーンは引きで撮っちゃダメだとあれほど…。車載カメラにしても、道路だけ映す前方映像と、前輪が映る右サイドの車外カメラがほとんど。実際の走行速度がどうなのか知らんが、カメラワークに芸がなさすぎる。それだったらCG使いまくりで迫力出した方が何倍もマシ。別に「リアルな」走行シーンありきの映画じゃないでしょ。これでは予算の都合でCG処理ができませんでした、てへ、としか見えない。

登場車種にしても然り。原作の設定に固執する必要はないと思うけど、スタリオン4WDラリー(レプリカらしいけど)をわざわざ探してきてるのに、自動車評論家が、BBCトップギアでジェレミーに「コクスター」とコク評されたケイマンになぜ敢えて乗ってるのか。まさか“ミッドシップで軽いケイマンこそ最高のポルシェだ”なんていう「リアルな」理由ではあるまい。原作の、敢えて、敢えて、敢えてリアエンジンの911のRSなのは何となくしっくりきてたんだけど。あ、その代わりにフォーカス「RS」?…まあ、RS200が用意できなかったとか、予算の関係とかあるかもしれない。けど実際のところ、車種に関しては別に何でも良い。「ん?」と思わなくていい範囲であれば。クルマが主役じゃないから。

で、何だっけ。私はこの映画に何を観たのだろう。あれ、この映画観たんだっけ。もう一回観てみるかな。そのうち。たぶん。

▼この記事|| 2010/03/12(金)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

ワイルドスピードX3 TOKYO DRIFT/The Fast and the Furious: Tokyo Drift(2006、米)

このシリーズの作品は全く観たことがなく、突然コレを観たので、シリーズとしての流れは全く知りません。実に私のステレオタイプ的アメリカ人的な発想の映画だなと思った。「とりあえずV8載っけとけばOK」みたいなのが根底にある。主人公のショーンも、当初は「デカけりゃいいと思ってる」男だったし。

1967年式マスタングのスペックはあんまりわかりませんが、NISSANのエンジン(WikipediaによるとRB26DETTらしい)をうまく載せたとして、足回りはどうなの?仮に、駆動系は当然としてステアリングギアボックスからサスペンションアームに至るまで全部換装したとしても、トレッド・ホイールベース等のディメンションの影響は?大柄なボディの重量は(総重量はあまり変わらないみたいだしボディのみで比べると逆に軽い可能性もあるかも)?速度域からして空力は関係ないとしても、重心は?何よりボディ剛性は?短時間のうちにマトモなマシンが完成するとは到底思えん。実際撮影に使用された車両はどうなんだろう。撮影で走ってるからにはちゃんと戦闘力のあるマシンに仕上がってるんだろうけど、どっちの車種がどのへんまで活かされてるんだろう。まあ細かいことはいいとして、ガワとエンジンを切り離して考えてるその発想そのものが、アメリカ人的だなと。

そう考えると、ガワはマスタングであっても、アメリカの誇りであるV8(OHVかな?現行マスタングはSOHCみたいだけど)を捨てて(捨てたんじゃなくて無かったから仕方なくなんだけど)、国産エンジンで勝負に行くというのは、『赤羽がんこモータース 3』(田中むねよし、小学館、2009)の第19話、「アメリカの行く道」ともリンクして、なんとも感慨深いものだ。そんなふうに、ちょっと切ない思いに浸っていると、最後の最後に正真正銘のV8(だと思う)のサウンドが聞けて、アメリカ人的には歓喜のうちに幕を閉じるという。実に気分の良い映画だ。

なんでランエボでドリフトしてるんだ(WikiによるとFRに改造しているらしい)とか、日本は韓国にとってのメキシコなのかとか、印象に残った点は色々ありましたが、きりがないので略。けど、日系俳優の日本語のセリフの「吹き替えです感」(DVDの場合)を何とかしてほしかった。別に『ガン・ホー』(1986、米)みたいな訛りまくりな感じでもよかったのに。あと、何でもかんでもクルマごと体当たりすりゃいいと思ってそうなあたりはさすがに日本人の私にはついていけません。NASCARじゃないんだから。

▼この記事|| 2010/01/03(日)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

猫の恩返し(2002、日)

英語タイトルは『The Cat Returns』っていうのか。じゃあ、『スーパーマン リターンズ』の邦題は『スーパーマンの恩返し』か(違)。

これ書く前にケータイでネット検索してて発見した、この映画に対するツッコミが非常に稚拙でびっくりした。そりゃ確かにツッコミどころは探せばそれこそ本が1冊書けるほどあるだろうけど。私が唯一気になったのは、人物や背景の大きさの比率。

軽度のネタバレ?
詳しく検証したりしていないので、「そう感じた」というだけで、実際はものすごく綿密に計算されているのかもしれないが。最初は、当然フツーの世界。猫の事務所のある一角は、恐らくフツーの猫が人間だったら(というか人間が猫サイズだったら)このくらいの大きさの家に住むだろう、という大きさっぽい。ところが、カットによって人物と背景の大きさのバランスが違って見えるので(遠近法が極端なのか?)、なんかおかしい。その空間にいる間に主人公が徐々に徐々に小さくなったりでもしているのだろうか。猫の世界では主人公が小さくなって猫サイズになった、という設定だし。置き物のときのバロンは、猫の事務所の窓に飾られているので、ものすごく小さい。動き出すと同時に巨大化するのだろうか。そのへんの設定は知りませんが、私には、置き物のバロンと猫の事務所の窓の大きさの関係が、フツーの世界の窓の大きさに影響されているように見えてならない。

まあそんな感じでそもそもの設定上、人物の大きさが変化するので、難しいのは分かるのだけど。が、人物(猫含む)同士の大きさのバランスまで、カットによってなんか違って見えるのはいかがなものか。アニメーションって、キャラクター決めたときに、各人の大きさの関係が分かるように、登場人物が全員並んだイラストを作るよね。それを見てみたい。見たらなるほどって思うかな。けど、アニメーション(に限らず映像作品)って、「正しく」描くことより、観る人に自然に見えるように描くことの方が重要だよね。

この作品と関連の強い『耳をすませば』の中に、「遠くのものは大きく、近くのものは小さく」見える世界が出てきますが、その中でも、雲(のようなもの)は遠くのものの方が小さかったり、飛び去る人物はフツーに小さくなっていったりしているわけで。これは設定上「間違っている」と言えるけど、仮に飛び去っていく人物を、その世界の法則に従って徐々に大きく描いたとしたら、それが遠ざかっていっているということを観る人が認識できないので、作品として成り立ちません。

全然関係ないけど、DVDの日本語字幕に誤植発見。「猫の命にはえられないか」だって。「代えられない」じゃないの?

▼この記事|| 2009/12/24(木)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

茄子 スーツケースの渡り鳥(2007、日)

これってOVAだったのか。それすらも知らずに観た人です。前作の「アンダルシア~」は、原作を読まずに観て、わりと好きだった。その後、原作を読んで、わりと好きだった。今回、原作を読んで、しばらくしてから観た。

ペペがルパンに見えてしょうがなかったのだけど、これって、本当に黒田硫黄の同名の作品を原作とした映画なのだろうか?細かな設定とか画風とかは全然重要だけどひとまず置いといて、空気感が全然違う。どのくらい違うって、「ランボー」と「ランボー2」くらい違う。もしくは、「ランボー3」と「ホットショット2」くらい違う(あくまで例えです)。これには正直、心の準備ができていなかったというか、一人の観る人としての対応力が追いつかなくて、迫り来る作品から反射的に身をかわし続けていたら、状況を把握する前に終わっていた。

今回、先に原作を読んで、わりと好きだった。その後、原作の内容を忘れかけた頃に観て、違和感を感じた。その原因を探るべく後から原作を読み返して、確信した。私は、黒田硫黄の絵は好きではないけれど、黒田硫黄の空気感が好きだった。よしもとよしとも原作で黒田硫黄作画の作品が微妙に好きだったのは、よしもとよしともの原作の空気感が好きで、黒田硫黄の絵が好きではないからだと思っていたけれど、あの空気感は実は紛れもなく黒田硫黄の絵であって、私が好きな黒田硫黄の空気感は、私が好きではない黒田硫黄の絵だった。つまり私は黒田硫黄の絵が微妙に好きだった…あれ?

なので、言ってみれば原作崇拝者の一人になってしまった私にとってこの作品は一種の失望であり、所々に原作のモチーフを発見して「お!」とちょっと喜んだくらい、まるっきり違うものに見えた。が、それはつまり前作を加味した上で考えると、この高坂さんという監督が、原作との距離感を自分の手指のように自在に操ってどんな風にでも消化(昇華?)できるんだぞという手腕を目の当たりにして、この全く新しい創作物に腰を抜かしてしまったというか。だから命からがら身をかわすのが精一杯だったのか。

以上から分かる通り、非常に素晴らしい作品です。が、今思うと、アニメーションのデジタル化がどんどん進んで、なおかつデジタル化に起因する違和感がどんどん薄くなってきてるなぁ、という点にばかり目が行ってしまう54分間だった。デジタルの自然さに感心する一方で、手描きのアニメーション部分のうねうね感が気になってしょうがなかった。アクロバチックなアングル連発だったからなおさら。AKIRAみたいな「味」のあるうねうね感ではなく、もちろんジブリ的なスマートさからは程遠い。動画描いたの誰だよ。予算の都合?

▼この記事|| 2009/12/14(月)| 映画| トラ(0) | コメ(2)

茄子 アンダルシアの夏(2003、日)

黒田硫黄という人は、よしもとよしともとのコラボがあったりしたので知っている程度で、実はよく知らない。結局原作も読んでない(と思う)。あと監督が誰だとか、劇場版映画としては短いとか、何も知らずに観た。今回久々に観たけど、仮に前回観たときそれらを知ったとしてももう全部忘れていた。世の一般人の例に漏れず、監督がジブリと深いつながりのある人だから勝手にジブリつながりの作品かと思っていたけど、あのマッドハウスか。あの、と言ってもトライガンしか知りません。

まるでドラマみたいな作りだったら裏に秘めた色々が溢れ出しててんやわんや映画になってしまいそうなところを、裏には色々あるだろうけど結局それが表に出てこなくて、何も起こらないまま終わってしまうところが非常に現実を見ているようで、ため息も出ない。いや実は裏には何もないのかもしれないけど、それはそれを判断する人が裏があると思うかないと思うかの違いだけなので、どちらにしろ現実を見ているようであることに変わりはない。

最初は、ゴール直前のアレと結果ありきの映画かと思ったりもしたけど、仮にそれだけだったとしても全然よかったのだけど、実はそんなことは全くもってどうでもよくて、大事な、けどやっぱりどうでもいいことはそんなことじゃなくて、でもどうでもいい大事なことを大事たらしめるためにどうでもいいアレもやはり必要で。まるで作品の方から、どの方向からどういう目で観てくれてもいいです、観てくれなくてもいいです、と言われているような気がして、その脱力感に安心してしまったけどそれでよかったのだろうか。

自転車ショー歌を聴いてもビアンキとチネリくらいしか分からなかったくらい自転車の世界には詳しくない私だが、なんかすんなり楽しめるのが不思議だ。これは前回も思った。逆にその世界を知っちゃってると、私の性格上現実と混同してリアリティを求めすぎたりそれによってアラ探しに発展したりしそうなので、却って良かったかも。集団がS字っぽく過ぎていくところのアニメーションがAKIRAみたいにうねうねしてたり、上空から見た集団の動きがあまりに機械的というかデジタル処理的だったり(実は現実に忠実に描くとそう見えてしまうのかもしれないが、この場合それは問題ではない。仮にスーパーの買い物袋からネギが飛び出している率が現実世界ではあまり高くなかったとしても必ずネギが出ていなければならないというようなルールがある)、レガシィが所々崩れてたり、気をそがれる部分もあったけど、終盤は…終わり良ければ、です。

▼この記事|| 2009/06/08(月)| 映画| トラ(0) | コメ(2)

さらば青春の光/Quadrophenia(1979、英)

ある種のネタバレ。

必死のジミーにステフがとどめの一言。

ブライトンなんて 遊びでしょ」(DVD字幕)
ブライトンなんて お笑いよ 面白半分よ」(LD字幕)

お笑い」!?お笑いだったの?あれ…。私の持っているLDの発売はたぶん1988年。私見ではあるけれど、21世紀現在の日本語語彙における「お笑い」という言葉の持つイメージが、エンタテインメントのある特定のカテゴリを指す言葉としてかなり濃厚に定着しちゃってる感があるため、この字幕にものすごい違和感を覚えてしまった。

肝心の原セリフは何て言ってるのかというと……私の英語聴解力では聴き取れませーん(泣)。「laugh」とか「giggle」とか言ってるようなので、LD字幕は、まんま直訳に近いようです。誰か正確なセリフがわかる人、教えてください。


しかし、何度思い返しても、ただ“Love reign o'er me”のフレーズが繰り返し繰り返し頭の中に流れ出します。The Whoのアルバムは聴いたことがないのだけど。

▼この記事|| 2006/01/16(月)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

青い車(2004、日)

サニーデイ・サービスのシングル曲「NOW」(『NOW』ミディ、1997/09/26)みたいな映画だ。

先に解説しておくと、「NOW」という曲は、当初はサビの部分のみ15秒でパーペキに完結した楽曲として、ある種の天才・曽我部氏によって作成された。しかも、アレンジ等も含めわずか数秒で完成したという。それを、そのままでも良かったのだけど、音楽シーン的現実的常識観に照らし合わせた上でいちシングル曲としてCD化できるよう、後付でAメロBメロ等のコンポーネンツを用意し、3分超のスケールまで引き伸ばした。らしい。

予算が明らかに足りてない感は否めないのだけど、問題は予算でなく、予算の足りてなさを脚本やカメラワークや編集やその他個人技等で全くカバーできていない点である。まあそんなことは映画に対して言うべきものを持ち合わせていない私が言うことではないと思うのだが。観る前から、「多くの人がこの映画に対し非常に厳しい評価を下している」という情報を得ていたので、否定的に観始めたのは否めない。けど、改めてレビューを観てみると、絶対数は少ないものの、非常に高く評価している人もいますね。中間(どっちつかずの評価)は、ほとんど目に付かない。みんながみんな、すごく好きか、すごく嫌い。それって、クリエイターからしてみれば最高の栄誉ではないだろうか。

終盤、原作コミックと同じシーンが出てくると、そのカットのひとつひとつまでもが原作に忠実なのを見て、原作ファンとしては安堵し、感動する。けど、それは映画ファンもしくは映画に多大なる期待を寄せていた人からしてみれば、大きな失望に他ならない。あーあ。あ、私は失望する側の人間ではなかった。ま、いいや。あーあ。

そう、細かいことを言えば、小さな失望のひとつひとつなんてどうでもいいのだ。私が気になったのはただ一点のみ。その一点だけで、私はこの映画に(図々しくも)“駄作”の評価を下したい気分になった。

ヤツじゃなくて人!!

まあそんなのは原作崇拝者のたわ言でしかないのだけど。せっかく、映画で演じられてる人物像と原作で描かれている人物像が結構それなりに違うのだから、中途半端に原作と重なるシーンだけ原作に忠実にしてしまうのは実に中途半端だ。お!出ました「中途半端」の言葉。実に“どっちつかず”です。もっと原作を突き放しちゃってほしかったです。けど、別に突き放しちゃわなくてもいいです。

http://www.aoikuruma.com/

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▼この記事|| 2006/01/16(月)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

月とキャベツ(1996、日)

若干ネタバレ気味

花火が最後にうたう歌が、ヒバナへの想いを重ねて歌ってはいるが、その歌(歌詞)そのものは、あくまで花火が(ヒバナの協力?もあってかもしれないけど)完成させた、アーティスト花火としての新曲であって、それ以上でも以下でもない、という点で非常に良くできたエンディングだ。非常に良くできたエンディングに持っていくまでの過程は、終わりよければなんとやら、だ。

片手間的に観ておいて何ですけど、その意味では、花火はヒバナの髪に触れて抱き寄せるくらいで留まっていてくれてもよかったのだが、別に留まっていてくれてなくてもいいです。

気になっているのは、ヒバナのウォークマン。台風直撃の悪天候の中土砂崩れに巻き込まれてもなお回り続けていたという(時代的・雰囲気的にカセットテープだろうなぁ)が、こいつ、防水のタフなやつだったのだろうか。これが、防水のタフなやつであることを祈ってやまない。だって、もしこの発言が、理人プロデュースの、詩的な表現(別の言い方をすると、言葉のあや)だったとしたら、まるで映画のセリフみたいに思えてしまって一気に気分が冷めてしまう。もしくは、カバンが耐水性のある生地で、奥の方に入っていたウォークマンはたまたま…とか考え出すと何だか生々しいので遠慮したい。田舎の町を出てこれから東京へ向かうというのだから、電池も満充電に近い状態で…発見されたのは事件から何時間後…はい、もうやめましょう。
[2006年1月8日]

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▼この記事|| 2006/01/07(土)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

ショーシャンクの空に/The Shawshank Redemption(1994、米)

この映画を観て希望を見出せ?絶望しか、じゃなかった、絶望の方がより色濃く見出されちゃった私はどうしたら良いのだろう。ハンマーの形にくりぬかれた聖書でも読むか。

「原作を読んでから映画を観ろ」。この原則は守りました、今回。適切な言い方がわからないけど、タッチとでも言うか、根本の部分が、「刑務所のリタ・ヘイワース」(というフレーズ)と「ショーシャンクの空に」(というフレーズ)くらい違うね。そして思った。当然かもしれないが、かの原則は、分析的に観たい場合に有効であって、エンタテインメントとして捉えたい場合には機能しない。そして不思議なことに(i. e. 私の予想に反して)、障害としても機能しない。ノーリスクちょいリターンってやつだ。って言うと突然安っぽくなるのがちょっと口惜しいが。

今作に限って言えば、絶望しか、いや、絶望の方がより色濃く見出されちゃった私にとっては、分析的に観られたことが結構大きな救いになった。撮り直したいシーンもあったし(ちなみに、終盤に出てくる、ANDYのNを彫ろうとして何かが起きたシーンです(注:私は映画に対し何か一コダワリ持っている人ではないので、まあ、そういうことではありません))。

でもやっぱり、世の中には気分を変えるために映画を観る人も多いかもしれないが、映画はその時の気分の輪郭をくっきりさせたり、拡張するだけのような気もする。それは作品によると思っていたが、そうでもないかもしれない。そんなことを思った。作品に直接関係しないことばかり思うのは、作品が大したことないから?いやいや、そんなはずはないと思うけどなあ。どうかなあ。

これ、「恐怖の四季」の一角だよ。

▼この記事|| 2005/12/29(木)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

ミニミニ大作戦/The Italian Job(1969、米)

リメイク版(2003年)の400万倍面白い。映画の感想は以上。

“主人公”を最新式のFIAT500にしてくれたら、何台壊してもいいし、ジャガーやらアストンマーチンやら…あと何だっけ、それに最新のフェラーリもくれて、さらに5万ドル援助してやる、という提案があったそうだが、受けなかったそうな。まあ、イタリアをかき回す賢いイギリス人なんだから(FIATは被害者(?)側だ)、英国車じゃなきゃダメだろうな。3台が見事に赤白青(ユニオンジャックだ~って、終盤まで気付かなかった私はバカか)に塗り分けられてるし。もしFIAT500になってたら、フロントの狭~いトランクルームにどうやって金を積むか?とか、面白そうだけど。でも、いくら最新式であっても、FIAT500じゃあ動力性能的に厳しいんじゃないだろうか、金塊載せて。片や“Cooper”なんだから、600ベースのABARTH 1000TCRくらいじゃなきゃ…って、マニアでもないのに知ったふうなこと書くのは止そう。

確かにあなたの言うとおり、どうってことない展開で、同じ100分に収めるなら、リメイク版のほうが様々な要素を実に緻密に計算高く詰め込んであって、まさに旧ミニに対する新ミニな感じ(リメイク版は110分。車格がでかくなったってことで)だけど、やっぱり、その「どうってことなさ」が良いです。金塊の重さなんて大して気にしてない感じのノリの良さが、なんとなく現代から見た旧車な感じで。

»続き
▼この記事|| 2005/12/25(日)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

ルパン三世 ルパンvs複製人間《クローン》(1978、日)

なんとこれがルパン三世の劇場映画第一作だったとは。何も知らずに観てました。でかすぎるトラックとか、ミニ“のような”車とか、狙った部分も狙ってない部分も、いろんな意味で楽しめた。クローンなんていう、わりと最近の話題を当時としてどう扱っていたかなど、な~んにも考えずに観始めて、観終わった。なかなか秀作じゃん。

LESTLAN 写真:©NTV/モンキーパンチ。一瞬(というほど短くもないが)写ったコレを見逃さないくらいにはちゃんと観てたのにね。「JAPANES LESTLAN」。この単語を検索しても日本語のサイトはヒットしません。つまり、もしかして私が日本人初の「LESTLAN」?なんか嬉しいわ。

この単語を検索してヒットした英語サイト(中身はちゃんと読んでないので、どんなサイトか、という説明は省きます)に書かれていた、「lestlan」に関する記事を引用しよう。

Dougって友達のアパートで、「The Mystery of Mamo」のビデオを観てたのだけど、途中、ほんの一瞬、背景の中に何か気になるものが。ごちゃごちゃした都市の風景のショットで、看板に「lestlan」って書いてあるのが目に付いた。…は?「lestlan」?そう、たぶん「Restaurant」って言いたかったのだろう。でも、まあ、日本人というのはLとRの区別…(略)
Bastard Sons of Zeroes Unlimited(?)、訳:私

http://zer-un.199x.net/articles/arcade.shtml

▼この記事|| 2005/09/21(水)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

海底2万マイル/20000 Leagues Under the Sea(1954、米)

いわゆる昔の名作的に思っていたが、実際はファ○ナルファ○タジーⅢ(だっけ?)の潜水艇に名前が使われていることくらいしか知らない。そして原作も読んだことがない。だめじゃん。

教授と助手が漂流していたのは大海原の真っ只中なのかと思っていたら、葬式の様子がすぐ近くに見えてるということは、どうやら浅瀬らしい。海って唐突に浅いところがあるの?それとも今は海底に沈んだという島が近かったのだろうか。海のことはよくわからないけど、潜水艦の後部に備え付けられたボートに蓋ができるようになっているなど、非常に芸の細かい映画という印象だった。

ところがストーリーは。大いなる“お宝”は、目前で消えてしまった。けど、それでよかったのかも。なんて、そのへんのコミックや小説でよく目にする手垢まみれの展開に、またこのパターンかよ、と思わず思ってしまった。けど、もしかしてこれが、世に溢れるそれ系のオチの元祖?だとしたらスゴイんじゃないか?だってこれ、何年前の作品だよ。

最近の映画っていうと、正義のヒーローがいて、悪の根源がいて、という親しみやすい(単純な)ものしか観ていない私である。しかし、何が正しくて、何が間違っていて、つーか何が主題で誰が主人公で何が善で何が悪なの?というこの映画の見事な構成は、却って新鮮に映った。比較的誰でも楽しめる系っぽいのにね。もしかして私の頭は退化しているのだろうか。

古い映画って、映像技術の現代との違いとかに目が行ってしまいがちだけど、そんなことにはまるで目が行かなかった。映像技術が優れているからではない。他に観るべきものが多かったのと、片手間に観ていたのが原因だ。

▼この記事|| 2005/07/31(日)| 映画| トラ(0) | コメ(2)

日本国内のいわゆるベスパフリークのうち約2割が、この映画を観てベスパにはまったという。残りは2割が『さらば青春の光』、2割が『探偵物語』であとの4割が「街で見かけて」と「その他」。割合には何の根拠もなく、てきとう。

ところが私は、ベスパは好きだけどこの映画を観るのは初めてなので、「わぁ~フェンダーライトがいっぱい走ってる~」とか、映画じゃない方向に目が行ってしまった。残念。しかもクルマはトッポリーノじゃないか。ぐわぁ~こんな感動がしたかったわけじゃないぞ。

根底のストーリーは、いかにもベタベタなのかもしれない。けど、所々に仕掛けられた気をそぐような演出がわざとやってるものなのか、また肝心なときになんか気が抜けるBGMが意図的なのか、本当のところは知らないけど、私にはこれが、無条件に感動してしまわないよう、冷静にそれぞれの眼でそれぞれが見るべきものを見出せるよう、緻密に計算され配置された咳払いのように思えてならない。はぁ、やっと句点にたどり着いた。

そう思うと、最近の映画は、自動的に感動してしまうストーリー構成に、無理矢理涙を誘う演出&完璧なタイミングで追い討ちを掛けるBGM。さあここで感動しましょう!と言わんばかりの、妙にコントロールされてる感が、後から思うとすっごく醒めてしまう。その時はやっぱり乗せられちゃうだろうけどさ。ある意味もう少し不完全なものであってもいいんでないの?

▼この記事|| 2005/07/26(火)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

ラン・ローラ・ラン/LOLA RENNT(1998、独)

某!オークションでビデオを格安(なんてもんではない超格安)で手に入れてみたら、日本語吹替版だった…。

久々に観たけど、思ったほどテンポが速いわけでもなくて、じっくり楽しめて、いい映画だった。しかしなぜ日本語吹替版なんだ。私の偏った価値観によれば、日本語吹替版なんてのは、子供が見やすいように、という以外に存在価値はない。子供!そうか、この映画はお子様に観てもらうといいかもしれん。

アニメーションが効果的に使われていて、テンポが良くて単純にサクッと楽しめるから、じゃないよ。「人生なんてこんなもので、こんなふうにしかならんよ」。そんなことを、若いうちからサクッと教えられていたら、どんなにか生き易いだろう。まだ子供の私は、今回これを観て、何だか救われた。救われて初めて、自分が救われなきゃいけないような窮地に立たされかけていたことを知った。観なけりゃピンチを知らなかったわけで、「知らない方がいいことなんてない」という価値観がもしなかったら私は単純に損をしたことにしかならん。

ウラ金の運び屋をやってるような男と、ウラ金の運び屋をやってるような男と付き合ってる女に、訪れる結末とは…。有害図書に指定してはいかがでしょうか。

ところで、ローラは(フラ○カ・ポテ○テは、じゃなくて)、決してかわいくないね。けど、あんなにも赤い髪が似合うんだったら、決してかわいくなかったとしても、かわいいことよりもずっと価値があると思う。いいなあ、赤い髪。

»続き
▼この記事|| 2005/07/22(金)| 映画| トラ(0) | コメ(2)

JFK(1991、米)

別に今日観たわけじゃないけど、何となく思い出したのでせっかくだから書いておこう。…と思ったけど、観たときに思ったことが何だったかってことって、時間が経つと忘れるんじゃなくて、もっとタチの悪いことに記憶が発酵したり改ざんされたりして残るんだよね。

私は、この映画を単なるエンタテインメントとして受け止めていいのだろうか。それが疑問だ。当該事件に関する予備知識が全然ないものだから、そんな疑問を抱いてしまい、心からエンタテインメントとして楽しめなかった。いや、その疑問こそがエンタテインメントだ。と言い切ってしまうと、真実の探求者として落第点だけど、でも私に何をしろと言うのだ。

前にもどこかで書いたかもしれないが、あるいは口にしただけかもしれないが、ケビ○・コ○ナーの声って、「威厳」というものから最も縁遠い感じだよね。それがこの映画の役に妙にはまってて、映画の「訴えかける力(りょく)」アップに大きく貢献していると思う(モデルになったジ○・ギャ○ソンがどんな声だか知らないけど。え、ギャリ○ン本人も出演してる?そりゃもう一度観ないといかんわ)。しかしどうやらギャリソ○役は当初予定していた俳優とスケジュール等が合わなくてケ○ンに落ち着いたようですね。いや、ナイス配役だと思いますが。

でも、私が観たのは「ディレクターズ・カット」。約206分。何かやりはじめたら一度に片付けなきゃ気が済まないこの私が3回に分けて(途中に小休止というか睡眠を入れて)観たチュウほどだ。次回観るのはいつだろう。

チュウ)普段ならそろそろ寝るという時間に観始めたせいもある。

▼この記事|| 2005/07/07(木)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

トーク・レディオ/Talk Radio(1988、米)

昔どこかで目にして(地上波かな?つーか他に可能性ないよな)衝撃を受け、ある日レーザーディスクを見つけ、タイトルもうろ覚えだったのに「コレだ!」と強い確信を持って買った。…たぶんコレだったと思う。今思えば、当時何に衝撃を受けたのか分からない。それは、当時から分かっていなかったからだ。

これを通して何が言いたいのかを私は理解できないが、私は好きだ。別にいいんじゃないの。単なる映画(ショー)だし。匿名だし。彼は最後まで“誤解”されて歓迎/ブーイングされたようだが(いや、誤った歓迎と正しいブーイングだったのかも)、多数決で決めるなら、彼の理解されたがり方が間違っていたのだ。あれ、それは外してはいけない大事なコードに違反していないか。ま、いいや。そんな彼を最初は○スティン・○フマンかと勘違いしたほどの私だ。理解できるはずがない。『○ージー・○イダー』も見たし、ビー○ルズも好きだけど、だから何なんだ。伏字にすることに意味はないが、検索で引っかからないという効能はあります。

そんなわけで、無音のエンドロールという斬新かどうかは知らないが非常に効果的な演出のおかげで、色々考えさせられるんだけど、何せ理解していないものだから、何を考えているのかを考えているうちに終わってしまう。でも、長いことはめてたギプスが取れたときの寂しさって、解る気がする(ただし、実感したことはない)。悲しいけど、残念だけど、所詮その程度の存在でしかなかったのだよ。番組(ショー)だし。匿名だし。

...a piece of strawberry pie or a piece of pumpkin pie.
イチゴ・パイとレモン・パイを比べられるか?

こんなところで字幕の字数制限をクリアする技(…か?)を見つけるとは。シェルリーンがシェリルなのは同じ理由か?彼(か)の国の名前事情に疎いのでわからん。名前事情はもちろん、思想だって歴史だって社会情勢だって知らん。それが理解できない理由か?ならまだ救いがある。バカの一員じゃなくなれるチャンスがあるから。

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▼この記事|| 2005/05/02(月)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

ラスト・サムライ/THE LAST SAMURAI(2003、米)

その結果招いたのは、和魂洋才か、はたまた和洋折衷か。こんなツッコミにくい時代&テーマを映画にするなんて、無学な俺としては「卑怯だ!」と叫びたくなるような作品だ。まあそういうわけで、何も言うことはない(何も言いたいことがない、かつ何も言えることがない)のだけど、けど、何でもいいんだけど、気になったことと言えば、英語の台詞も大して聞き取れないが、それ以上に日本語の台詞がぜーんぜん聞き取れないということ。途中何度巻き戻した(といってもビデオじゃなくてDVD)ことか。やたらと字幕をつけたがる最近の親切設計バラエテー番組の影響か、日本語台詞にも日本語字幕が欲しいと心底感じた今日この頃である。

さすがに、『ベスト・キッド2』と比べると、なんでこの場面で英語/日本語が通じる/しゃべれるの?的な解せなさは格段に減っている。けど一箇所、ある日本人が「Jolly good」と発言してるところに、英語字幕で“Jolly good”と出ていた気がする。なんだよ、じゃあトムが日本語しゃべる場面にも日本語字幕つけてくれよ。…いや、むしろ聞き取れなかったのは日本人がしゃべる日本語なのだが。

ケン・ワタナベの演技がすごいという前評判(本来の語義とずれてますが)を聞いていたのだけど、他の日本人役者の演技が大してすごくないのに対して、一人輝いている、というふうに見えなくもなかった気がしないでもない。それより、合戦場での帽子をかぶった大村(このシーン限定)が、腕利きライター&ミュージシャンの和○井○司氏に非常に似ていると思ったのですけど、誰かそう思った人いませんかね。

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▼この記事|| 2005/04/03(日)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

ベスト・キッド4/The Next Karate Kid(1994、米)

原題をそのまま邦題にも使った方が良かったのではなかろうか。続編というより番外編な感じだし。でも「ネクスト~」にすると頭文字が変わってしまうのが問題というならば、「ベスト・キッド・ネクスト」とか?変だな。邦題を考えるのは大変である。“joyride”に「ふたりのときめき」、“I WANT TO HOLD YOUR HAND”に「抱きしめたい」とつけた担当者に合掌。じゃなくて拍手。

なんでもいいけど、ヒロインがものすごーく、かわいくないんだよな。なんかこう、ブサイクなの(後にアカデミー主演女優賞×2らしいけど)。きっとそれがいいんだろうな。知り合いにもいますね、こういう人。でもこの映画の主人公はあくまでミスターミヤギである。目が痛くて見てられないほどに輝いている。ミヤギさんのキャラだけでここまでシリーズを引っ張っちゃうのだから、大したものである。「アルファ・エリート」の名前といい存在そのものといい、なんだそりゃ的な終わり方といい、シリーズ伝統のB級さもしっかりと持っているし。まあいいんじゃないすか。ただ、仮にマイケル・ジョーダンがただのバスケットボールプレイヤーであったとしても、クルマはレディー同様丁重に扱いたい。頼むからさ。
[2005年2月頃]

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▼この記事|| 2005/03/31(木)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

ベスト・キッド3 最後の挑戦/The Karate Kid Part III(1989、米)

続編の正しいあり方。「2」は見なかったことにして、これが真の続編だということにしておこう。まるで安っぽいテレビドラマ的な分かりやすい展開もマル。主人公のお相手役が主人公のお相手役であって主人公のお相手役でないという設定の持っていき方にいたく感心しました。いつのまにか評論家風になっちゃってるけど、手法とかそんなものはどうでもよい。「2」で壊滅的になっていたシリーズ全体の組み立てを、3部作として見事おさめるという偉業を成し遂げました。ちょっと無難すぎ?いやいや、わたしのような一般人にはこういう終わり方が一番心地良いのだよ。
[2005年2月頃]

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▼この記事|| 2005/03/31(木)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

ベスト・キッド2/The Karate Kid Part II(1986、米)

水戸黄門と戦隊モノと○曜サスペンス系を足して50億で割ったような映画。よくこんなもん映画化したよな。ツッコミどころ満載、と言いたいところなのだが、わたしは沖縄の農村が本当にあんな時代に取り残されたような感じなのか知らないし、米軍基地周辺の村民が英語に達者なのかどうか知らないし、ミヤギとサトウが沖縄系の名字なのかどうかも知らないので、どうにもツッコミが入れられない。そういった意味では、よく出来ている映画だと思う。あれ、そういえば時代設定っていつなんだっけ。

ミスターミヤギの知られざる過去に迫りたい人、映画監督や脚本家やその他映画に携わりたいと思っている人、既に携わっている人などは、一度見ておくべきだ。しかし、アリiひとつが、こうも簡単に消し飛んでしまうとは、さすがである。
[2005年2月頃]

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▼この記事|| 2005/03/31(木)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

アメリ/Amelie(2001、仏)

わー。フランス映画だ、珍しい。と思ったけど『TAXi』もフランスだった。お、それを思い出してこの映画のランクが1コ落ちた。アメリよりリリーの方が好きだ。いや、それは映画そのものの評価ではないが。とにかく、何でコレ観たかったのだろう。内容云々は一切関係なく、とある特殊な事情により音声無し状態で断片的に見せつけられたせいで、ちゃんと本編を通して観ないと気が済まなくなってしまった、ということにしておこう。その方が楽だ。

さて。これはまぎれもなく、現代版『ローマの休日』だ。『ローマの休日』へのオマージュだ。二つの作品は、ストーリー設定…違う。製作国…違う。舞台国…違う。なんとなく雰囲気…違う。何も共通点ないじゃん。でもこれは間違いない。現代の時代そのものが持つ「キッチュさ」を以ってして、古き良き時代の映画の「他愛無さ」をアレンジすると(リミックス、という感じではない)、こうなる。明快で分かりやすく、かつテンポが良くて、その上、なんだかどうでもいい感じでないといけない。そのくせ、深みにはまるとストレートの球速は破壊力抜群で、磁石やコロコロのように一部の人をくっつけて止まない。そんな荒業を達成してるかどうかは疑問だが、まあそういうことだ。50年の歳月を経て益々好調です。

心の準備をしてからの鑑賞だった。一足先に断片的に見せられていたため、それによって形作られた先入観を持って観た。そして、いきなりイスを後ろに引かれてしりもちをついた。DJ的なテンポのノリを覚悟していたら、いきなり粘度の強すぎる2サイクルオイルのようにスローになり、かと思えば50ccの小気味良い排気音とともにスイーっと走り去り、あれよあれよと置き去りに。と言ってもせいぜい50km/h程度だろうか。そして翻弄されたまま、気付けば2時間が過ぎ去った。

アーニャと新聞記者によるベスパの二人乗りシーンは有名である。しかし、ベスパはあくまで脇役であって、それに製作者が何らかの意図を込めたり、評論家が何らかの意図をでっち上げたりしてるとしても、やっぱ単なる小道具である。…大道具かなぁ、さすがに。125ccだし。物語の後半には、登場さえしない。そんな深い悲しみを胸いっぱいの愛で語るかのように、これでもかと言わんばかりに新聞の一面広告よろしくエンディングに流れる景色とモトベカンの二人乗り。結局それが言いたいだけなんじゃないのか。これが、古き良き時代の映画への、愛と蔑みを表すと同時に、現代のキッチュという言葉の極地をちらつかせ、将来への懸念をも抱かせるのである。おまえ、幸せ幸せって、ほんとにそれだけでいいのかよ。大丈夫かよ。

ところであのモペッド、モトベカン…だっけ?と、自信がなかったのでGoogleで「アメリ モトベカン」と検索したところ、いーっぱいヒットした。正解。しかしモトベカン、色んな映画に登場しているようだ。『TAXi』のプジョーといい、こいつのモトベカンといい、愛国心旺盛であることよ。アメリカはベスパな国の映画なんて作ってていいのかよ。王女と新聞記者がハーレー・ダビッドソンでNYかラスベガスあたりを(別に首都じゃなくてもいいだろう)タンデム…いいなあ、2010年までに公開してほしい。でもその前に王女がいないことが問題だ。

まあ、そんなこんなで、あのモペッドに心打たれた人は幸せだ。私の唯一の失態は、ニノが最初にモトベカンに飛び乗って走り去るシーンを見たとき、彼はたまたまそこに停めてあったのを15の夜したのだと勘違いしてしまったことだ。私の幸せはしぼんだ。しかし反動で後半には却って大きく膨らんだ。唯一最大の気掛かりは…ジョルジェットはどーなのよ。え?

『ローマの休日』、そろそろ観るべかな。まだ一度も観てないのよ(04年9月現在)。いちベスパ乗りとして、一応持ってはいるのだけど(ちょうどデジタルリマスターのDVDが出た頃に中古LDを発見して思わず買ってしまった)。

▼この記事|| 2004/09/15(水)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

ベスト・キッド/The Karate Kid(1984、米)

やっと、このコーナーの当初の目的に沿った作品の登場。昔観て、久々に観て、どうだったのかという。まあその前に、なんでこのタイトルなんだろうね。途中、中心的な使われ方をしてる80年代ポップスの歌詞に、「You're the best」って出てきた気がするので、そのあたり関係してるのでしょうか。でも、SUZUKIの「カタナ」(有名なバイクです、念のため)も80年代登場でしょ、たしか。あれが日本でもそのまま受け入れられたんだから、「カラテ・キッド」とかいう、どう考えても「カッコイイ!!」とは言われなそうなタイトルにしても受け入れられたんじゃないかなぁ。関係ないか。

ノウ天気な某国の映画で「日本」が登場すると、アジアの、(彼らにしてみれば)そっくりで区別のつかない他国とイメージが明らかに混同されてたり、目に見えて時代錯誤だったりして、それが観る人に憤慨なり嘲笑なり“ばかうけ”なりをもたらしてくれる(人によって受け止め方は色々だ)面白い存在なのだが、こと当映画に関しては…それほど変じゃない気がする。時代劇でしか見たことのない枕を使ってたりする気もするけど、ミヤギさんのあまりに悲しい物語によって、そんなことどうでもよくなってしまう。免許を持っていないミヤギさんが、50年代くらいか?と思われる(あまり詳しくないのでね…)カッコイイ車を何台も持ってるのはなぜか、とか、どうでもよくなってしまう。…いや、気になる。どんな背景物語が隠れているのか。そして、オキナワのミヤギさんは本当にみ~んな、カラテ漁師なのか。

でも、3回くらい観てようやく、いい映画だと思えた。それは、こんな会話から。

ダニエルさん:Well, probably killed at the first match anyway.
きっと最初で終わりだ
アリ i ひとつ:So we leave early.
早く帰れるわ

ここでとってもあたたかい気持ちになり、もう明日の試合なんてどうでもよくなってしまった。実際、どうでもいい。プロセスを楽しむ映画なので、結末は年末調整くらいに考えておけばよい。

時に、 i ひとつのアリは、試合の日までミヤギさんとはまるっきり交流を持ってなかったと思うが、当日彼のことどう思ってたんだろう。やっぱり胡散臭いオッサン?

▼この記事|| 2004/06/15(火)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

さて、なんか知らんけど、某人から変な映画の字幕の話が飛んできた。もう随分前だけど。話の内容としてはこんなかんじ。――アメリカ映画と思われるものを見ていたら、“blow-job”という単語に対して字幕で「尺八する(?)」という訳語が使われていてすごい違和感だった。――

そりゃ違和感だろうな、アメリカで尺八だもん。でも、それ他でも見たことがあるぞ。『スニーカーズ』(1992年、米)で。

and give him head whenever he wants.
  彼が望めば尺八(傍点・・がついてます)

ていう具合です。きっとこの単語が字幕に用いるのに最も適切である(1.一般的に通用する、2.字数が少ない・字面が簡単)との判断の上で採択されたのでしょう。ちなみに傍点(?)も字幕どおり。で、これは映画を見てもらえば話が早いのだが、というかぜひ見てもらいたいのだが、マーチンが無線で指示されたとおりに喋ってる場面でのこと。とにかくこんなことを口走ってはマズイ状況で、指示者が冗談で上記の発言をして、マーチンもうっかりそのまま言いそうになる。「and give him he..」まで言いかかって、「...help」とごまかす。これが字幕だと、「彼が・・・ シャクに触っても――」となっていた。うむ、このへんは翻訳の腕の見せどころである。

腕の見せどころと言えば、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年、米)で、マーティが若き日のパパに向かってつい「パパ!」と呼びかけてしまい、ごまかすシーン。

Dad! ...da da da daddy-o.
  パパ …パアだな (字幕)
  パパ! …パンパンパカパァ~ン (吹き替え)
  父さん! …トーヘンボク (出所不明)

どうです、翻訳者の工夫が見られるでしょう。さすが名作だけにパターンが豊富(いろんなとこで何度も観てるのよ)だが、実は今ブツが手元にないので、全部うろ覚えです。トーヘンボクに関しては、何で見たのか聞いたのか、まったく覚えてない。ちなみに「daddy-o」ってのは、「おじさん!」とか、一般男子に対する親しい呼びかけ、だそうです(広辞苑第五版)。知らなかった。

それはまあ置いといて、違和感な字幕、他にもあったぞと思い、調べてみた。『ベスト・キッド』(1984年、米)である。

Who's that blonde and blue?
  あの金髪 だれ?
The hill.
  山の手
What's the hill?
  何だ
Rich!
  金持ちさ

山の手!!カリフォルニアなのに、山の手!!…これ傑作だと思いません?僕だけ?まあとにかく、山の手が出てくれば当然、

I'm from a city, you're from the hill.
  君は山の手で ぼくは下町だ

ということです。キャルフォーニアの「city」は「下町」だった。金持ちを「hill」と表現するというのは知りませんが、金持ちは高い所に住む(のか?)、というのは、日本もアメリカも同じなのでしょうかね。うーむ、国際文化交流。

それにしても『ベスト・キッド』、改めて観ると面白い。

What's the song you're singin' now?
  なんて歌?
Japanese blues.
  日本のエンカ

* 念のため言っておくと、台詞の英語は耳コピなので、正確性に関しては、かな~り怪しいです。
* 『スニーカーズ』『ベスト・キッド』はLD版の字幕です。

▼この記事|| 2004/06/13(日)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

イージー・ライダー/EASY RIDER(1969、米)

まあ見方によってはつまんない映画だわな。

ラストで心を吹っ飛ばされることになろうとは。しばらく呆然と、何を考えているわけでもなく「考える」という虚無の中を彷徨う羽目になった。ひでえ。その昔、「映画」というのは単なるエンタ(ー)テイ(ン)メントではなかった、ということをすっかり忘れていたため、不意打ちを食らったわけだ。

映画たるもの、いくつもの面を兼ね備えていなければならない、なんて言うやつもいるだろうが、そうは思わない。心が吹っ飛べばそれだけで十分存在意義がある。だいたい、国も違えば時間も遠い、当時の「時代背景」なんてのも学校で習う程度にすら知らない。それでいてこれだけダメージを受けるんだから、それで十分ではないか。それ以上に何を求めるというのだ。どうしても足りないっていうのなら、あとはもう物理的に殴られでもしたらどうだろうか。あるいは――。

しかし、いや、いつもはその、なんというか、「何か」がつかめずに終わるところ、たまたま不意を衝かれて殴られちゃったもんだから、それについて先に書いたけど、たぶんおそらくそんなことどうでもいい。あのチョッパーを見たか。腕に血が行かなくて大変そうだ。だからスロットルは戻らないに限ると思うんだが、それはともかくとして、単に「カッコイイ!」と言ってレプリカのバイクに乗るバカを「バカ」と呼べますか。呼べないでしょう(呼べるかもしれないけど、呼べないことにしておいてください)。別に二人が何をやって、どこから来てどこへ行こうと、関係ないのだ。全部無駄にしちゃったとしてもそれでいいのだ。感想文を書けと言われて、5文字書けたなら、それで君はこの映画を見た甲斐があったわけで、製作陣は作った甲斐があったわけで、それですべてだ。


今なら当然フェードイン・フェードアウト(あるいは暗転でもいいけど)で処理されるであろう部分に使われる不思議なカメラワーク、というか編集ワークが気になった。最初は目新しさで「おお!?」と思ったけど、大して優れた効果を発揮してるとは思えないし、あれはもしかしてフェードイン・アウトの技術の単なる代用?んー、そういう点に関しても、的確な知識がないというのは不自由なものだ。でも、例えばそこだけが印象に残って、最後に吹っ飛ばされることもなく、目を閉じても単に二つのシーンがチカチカと入れ替わるだけだったとしても、それはそれで十分な「意味」だと思うのだが、どうだろう。

というわけで、どうだ。こんなに無知で無関心で気取ってるだけの人間でさえ、3つも意味を見つけたぞ。それにしても、けっこう和やかな映画に思えた私は、そんなに鈍感になっているのだろうか。和やかっつってもまあ色々あるけど…敢えて「自由」についての問いかけには触れませんでした。だってわかんねーんだもん。いいじゃないか、「ヤング・ゼネレーションのスピリットが爆走」すれば。

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▼この記事|| 2004/06/01(火)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

AKIRA(1988、日)

本当にいろんな意味で、スゴイ映画ではあるんだけどね。

原作が先か、映画が先か。そんな話を親から聞いたのはもう随分昔だけど、今でもよく憶えている。両方がアベイラブルなら、原作を先に読むと良い。それを映画化する上でどのような工夫がなされたかを見るという愉しみが生まれるからだ。確か『スタンド・バイ・ミー』の時。あれは映画を先に観てだいぶ後に原作を読んだ。あれ、原作読んだっけ。刑務所のリタ・ヘイワースは読んだ。けど『ショーシャンクの空に』は観てない(04年5月現在)。

これは原作が5巻まで手元にあるけど読んでないという状態で映画を入手したのだけど、ナウシカの如く、原作の途中までの話を映画化したんだという噂を聞いたので、原作を途中まで読んだところで映画を観はじめた。しかし。なんかこう、全然ちがう。フセインと犬が一緒に砕け散って一体化して再生したような感じ。原作を途中まで読んでも、映画の結末になりそうなストーリーの運びはなかったし、こりゃあ噂がデマだったなと判断し、15分ほどで中断し、原作を最後まで読むことにした。でも6巻がなかったので借りて読んだ。後日、古本で105円で入手した(重版)。

で、改めて頭から観たんだけど、これは…。あの設定やモチーフが、こんなところに使われてる!?まさに、ガラクタをかき集めて完動品のバイクを組み上げてしまうような手腕。あ、ぴったりの言葉思いついた。リミックスだ。DJ的手法とは思わないけど、こりゃあいい。スクラッチの手さばきだけを観てても楽しい。あとそれから、序盤でバイクの走り去るシーンとか、プレイステーションソフト「リッジレーサー4」(ナムコ)を初めて見た時のような感動。光が流れてるー。ジブリ作品が緻密さとスピード感だとしたら、こいつはひらめきとうねうね感とでも言えばいいのだろうか、アニメーションの出来を見てるだけでも楽しめるスゴさがある。ちなみに私が観たのは200カット完全リテイクの〈国際映画祭参加版〉なので、そのへんの感じ方は違うかもしれない。

でもストーリーはというと、原作を読み終えた直後ではっきり憶えている頭で観ると、あんまりかもね。ジョーカーとかもそうだけど、19号がかわいそうすぎる。みんな顔の割にキャラが濃いから、あれだけの原作を2時間にまとめる時点で無理なものは無理なのかもしれないけど、やっぱ薄笑いの口とハの字の眉毛と丸いサングラスで頬に汗の顔になってしまうね(単なるイメージです)。最後まで感心させられっぱなしのツギハギ職人の腕、そして終いにはアキラが…だもんね。だったら、もっと原作から突き放してしまっても良かったのではないか、そう思う節もある。いや十分すぎるほど突き放してるとは思うけど。なんというか、原作の背骨など浮かびもしないような。…でもやっぱいいエンターテインメントだよな。

▼この記事|| 2004/05/09(日)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

ミニミニ大作戦/The Italian Job(2003、米)

元祖「ミニミニ大作戦」(1969年)を観る前、どころかその存在を知る前に書いたメモ。

まあ色々あったんだけど、ミニの知名度と話題性にあやかっただけの映画、総合的にそう判断した。序盤で旧ミニが元気よく走るのを見ると、お、来るかな~と、期待はエグゾーストノートと共に高まるのだけど(あのへんは良かった。ありがちだけど縦列駐車とか。どうやって出るんだろ、とか思いつつ)、そのまましぼんでしまう感じ。これ、こんなタイトルだけど、クルマ映画じゃないよ。そもそも原題は「The Italian Job」。でもミニは英国車。"Italian hand"と言うと違う意味があるっぽいので、その辺の絡みでしょうか。イタリアならFIAT 500でしょうが。

クルマ映画じゃないんだけど、クルマ映画として見ると、解せないんですね。廊下が狭い(182cmらしい)。じゃあちっちゃいクルマを…で、なんで旧ミニじゃなくて新ミニが出てくるんだよ。ちっちゃくないじゃん。

クルマサイズ比較(04年4月調査)
車名全長(mm)全幅(mm)ホイールベース(mm)
旧ミニ(Cooper)307514402035
新ミニ(Cooper S)362516902465
FIAT 500(?)297013201840
ヴィッツ(1.5RS)366016602370
フィット(1.5T)383016752450

別にさ、何度も言ってるようにクルマ映画じゃないからどうでもいいんだけど、はじめに旧ミニを見せといてそりゃないよね、っていう感じである。まあ確かに、1トンのお宝を載せて走るのに旧型じゃあちょっと、というのはわかるけど、新型だって(Cooper Sの、120kwというのは見事だけど)結局秘密のチューンしてんじゃん。そう考えると、ただの宣伝だとは思ってたけど、本当にただの宣伝に見えてきた。調べてわかったんだけど、新ミニってヴィッツと同じくらいなんだね。同じ土俵だとは思ってもみなかったのだが。

まあクルマ映画じゃないから、クルマ映画じゃないとして見れば、初っ端の「え?」的展開から、とっても満足できる締めくくり方まで、新ミニと同じでよく出来ているとは思います。きれいにまとまった感じ。だからこそ、新ミニと同じでなんか物足りないんだよね。
[2004年4月3日]

んで、ここまで書き終えてから1ヶ月くらい放置してたんだけど、これって30年ちょい前に作られた映画のなんというか新しい版みたいなのなんだね。それを知らずしてこんなこと書いてちゃあいかんよね。ちなみに他の人のレビューを見たら、「タイトルが拙いせいで敬遠されてるのが惜しい」みたいな話だったけど、私としては、このタイトルじゃなければおそらく見ることはなかったわけで、その辺が面白いところであります。

▼この記事|| 2004/04/30(金)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

エンド・オブ・ザ・ワールド/On the Beach(2000、米・濠)

こんなどうしようもない気分にさせられたのは後にも先にもこれだけだ。

59年の作品のリメイクだそうで、ネットで批評を書いている方々は、それと比べて、時代背景も加味して、どうこうと語っているが、それも、原作すらも知らない私にとっては、この映画はこの映画であり、他の何者でもない。しかも最初に見たのは偶然で、見ようという意思も、予備知識も、何もなかった。それが引き込まれるように見て、どろどろした気分になり、直後にもう一回、自分でレンタルしてちゃんと見てしまった。単体で見れる自信がなかったので、明るいバカ映画を一緒に借りて、こっちを先に見たんだけど。3時間を超える映画(見たのは「完全版」ってやつです)を見た後、もう1本。なんてヒマだったんだろうね。

まあそれはいいとして、内容。えー、なんか思い返すと色々と浮かんできて、タイプする指が止まっちゃうんだよね。人と人とのつながり。自分にとっての、誰か。誰かにとっての自分。例えば「人間」に目を向ければ、そう。たぶん次回見るときには、矛盾とか手落ちとか、アラに自然と目が行くことになるだろうけど。


邦題がいいよね。なんかいかにも一時期の流行を感じさせるタイトルで。火山とか津波とか竜巻とか、自然災害系映画の流れ……って、これはどー考えても自然災害じゃないね。まあ彼らにとっては大差ないわな。こういうのを「パニック映画」と言うそうですね。思えば、最初に偶然見たときは、見終わるまでタイトルを知らなかった。だから良かったんじゃないでしょうか。余計な詮索をせずに見れて。

▼この記事|| 2004/02/10(火)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

となりのトトロ(1988、日)

小さい頃数限りなく見た映画のひとつだが、って、改めて思うと、本編ってそんなに何度も見ていないような気もするんだよな。少なくともここ数年、いや、小さくなくなった頃以降は、まるっきり見ることなく年を取ったようだ。ただ、キャラクターグッズが巷に氾濫しているため、またそれらを好んで集めていたので余計に、常にトトロと共に生きてきたような気がしてるんだな。んー、偶像崇拝だったのか。

で、ちょっと嬉しいことにLDを手に入れちゃったので、超久々に見た。そしてびっくりした。

――え!?もう終わり!?

こんなに短い映画だったっけ。長らく偶像崇拝を続けていたわたしは、自分の中でキャラクターが一人歩きして、ストーリーというものを、ストーリーというものが存在するということ自体を、完全に忘れていたようだ。そうだよねぇ、キャラクターだけじゃ映画にならんもんねぇ。でもそう考えると、キャラクター単体としてこいつは成立するか。――うん。成立する。じゃあ、この映画はキャラクターの一人歩きか。――ううん。そうじゃない。わ、すごい、両立してるよ。

トトロなんていないって、心のどこかでは絶対に思っている自分は、絶対会えないんだろうな。でも、まっくろくろすけは、目がくらんで見えるんじゃなくて、別の何かだと思うよ。それが、映画で描かれている姿と同じだとは限らないけど、とにかく、何か。

▼この記事|| 2004/02/10(火)| 映画| トラ(0) | コメ(0)

キンダガートン・コップ/Kindergarten COP(1990、米)

重度のネタバレ(か?)。

『ツインズ』に続く、シュワちゃんのコメディ進出作、らしい。冒頭でワイルドな刑事であることを強く見せ、そんな男が幼稚園の先生!?という意外性は、シュワちゃんがコメディ!?という世間的な了解の大前提があって初めて「意味」を獲得するものである。まあいいんじゃないでしょうか。

しかし、4年間追い続けたホシの元妻(ホシの息子までいるじゃないか)と恋に落ちる。何という強い因果の糸であろうか。そんな点に「人生」を見るもよし、はたまたそんな因縁をコメディの一部と捉えるもよし、選択肢の広い映画である。

▼この記事|| 2004/02/09(月)| 映画| トラ(0) | コメ(0)
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